星砂のシャドーライン

PART 1


都会の幹線道路は、夜になっても雑然とした昼の眩しさを引きずっていた。切りそろえられた街路樹と等間隔に並んだ街灯の灯。埃に塗れたライトの道筋に噎せた。
「どうやら今日は日付が変わる前に戻れそうだな」
男はカーナビの画面に表示されたデジタル時計の数字を視認して頷く。フロントガラスの向こうには何処までも先の見えない闇が広がっていた。レザーカバーの付いたハンドルは彼の手にフィットしている。シートに掛けられたカバーは柔らかなムートン。添え付けの空気清浄機は静かに作動していた。BGMはシベリウス。アコースティックなバイオリンの音色が車の中を満たす。

――冴木(さえき)君、君は実に優秀な秘書だ。君を手に入れることができて実に頼もしく思っている。これからは大いに私のためにその才能を発揮してくれたまえ
――光栄です。鬼石(おにし)先生。微力ながらご尽力致します
黒スーツに細いフレームの眼鏡を掛けた冴木が丁重に頭を下げた。
だが、その眼鏡の下から覗く目は決して屈服している訳ではないのだと主張していた。そういう意味では、彼を雇った男、鬼石修三もまた強かに彼を値踏みし観察していた。それは互いに承知していることであり、それこそ化かし合いの世界でもある。そこで生き抜くためにはそれ相応の覚悟と世渡りの上手さが未来を分ける。

赤い絨毯の上を威張って歩く鬼石のことを周囲の者は鬼弁慶と渾名した。が、果たしてそれほどの度胸と豪胆さがこの男に備わっているだろうかと冴木は疑っている。
彼、冴木良(りょう)は政界では優秀な秘書として名が通っていた。彼が味方に付けば、どんな凡庸な人間でも、たちまち閣僚クラスにまでのし上がることができると……。が、一度その彼を敵に回せば政治生命が絶たれるのみでなく、人生さえも絶たれかねないという噂がまことしやかに囁かれていた。彼を懐に抱え込むことは確実な出世と引き換えに身を破滅させることにも繋がる。まさしく両刃の剣だった。
その刃の扱いを間違えて地獄へ落ちて行った人間は数え切れない。それでも、彼の才能を欲しがって裏ではいつも闇の交渉が行われていた。

そして、今回、彼を射止めた男。それが鬼石修三だった。彼は現裏山内閣で官房長官を務める参役であったが、何かと黒い噂も絶えない人物であった。強引で傲慢なこの男には敵も多かった。だからこそ、今、冴木の手腕と才能が欲しかった。そして、その条件は破格だった。
冴木が望む物は金と保身。冴木は野蛮な暴力を憎んでいた。故に彼は暴力を恐れ、自らの安全を確保するためには平気で人を裏切った。常にメリットのある者と契約し、常に自分自身を優先した。自らの人生は自らを生きるためにあるのだと信じ、女と付き合うことさえなかった。
ある意味、金さえあれば、どんな贅沢な物でもどんな我がままでも押しとおすことができると考えていた。そして、それを手に入れるためには知の蓄えがいる。男はその努力を惜しまなかった。
試行錯誤の末、辿り着いたのが現在の地位だ。

が、彼はまだ満足していなかった。金よりもっと価値のあることを見つけたからだ。
(必ず手に入れてやるさ)
彼はそう心に誓った。
(そのためならどんなことでもやる。たとえ、この国を裏切るようなことになろうと……)

マンションに向かうため、彼はハンドルを切って右折すると閑静な住宅街が続く道へと入った。暗く静かな道を行く車の前に影が過った。
「子ども……!」
慌ててハンドルを切り、急ブレーキを踏む。ヘッドライトに照らされる影。それは道路にうつ伏せて動かなかった。
「おい、大丈夫か?」
男が降りて来て訊いた。轢いた感触はなかった。何かと接触した痕跡もない。が、少女は怪我をしていた。その子どもが微かに呻いて顔を上げる。

「どうやら君を車で傷つけてしまったらしい」
冴木が言った。
「ううん、ちがう……」
子どもはゆっくりと立ち上がって彼を見た。その顔はまだ幼い。まだ、ほんの7、8才にしか見えなかった。こんな子どもが夜中に一人で歩いているのは不自然に思えた。が、今は24時間営業のコンビニもあり、遅い時間に塾に通っている小学生も多い。その上、無責任に子どもを放棄している親まである世の中だ。冴木は驚かなかった。
「これはさっき転んで……」
少女は言った。両膝から血が出ている。

「とにかく病院へ……」
救急車を呼ぶべきか迷った。が、少女は立ち上がると何事もなかったかのように歩いた。見たところ、他に負傷しているところもない。特別痛がっている様子もなかったので男は少しほっとした。
「いやだ! 病院へは行かない!」
少女が怯えたようにあとずさった。
「なら、家まで送ろう。親は? 一緒じゃないのか?」
すると少女はますます怯えた顔になった。

(どういうことだ)
冴木はもう一度少女をよく観察した。髪はくせ毛。襟と袖口が汗染みで汚れている。服のサイズも彼女の体にはきつくて小さそうだ。
「名前は?」
「……」
少女は黙って俯いた。
「ならば、警察に行くか?」
「いやだ!」
彼女は後ろを向いて駆け出した。が、すぐに転んで膝を突く。やはり何処か痛めているのかもしれないと思い直して、冴木は少女の方へ近づいた。

「いやだ! 来ないで!」
そこに落ちていた石を拾い、少女は冴木に投げつけた。
「何故そんなことをする?」
「だって……知香(ちか)を連れて行こうとするんだもん」
「知香? それがおまえの名前か?」
子どもは慌てて自分の口を両手で押さえた。
「私は別におまえを誘拐しようなんてつもりはない。こんな夜中に子どもが一人でいたら、保護するのが当然だ。保護者か警察の所へ連れて行く」
男の言葉を聞くと子どもはしくしく泣き出した。
「いやだ! いやだよ……。そんなことしたら、またぶたれるもん」

「虐待か? 誰がおまえをぶつんだ?」
「……パパやママや……みんな……」
「ならば余計に放っておく訳にはいかない。警察へ行って保護してもらえばいい。そこから児童相談所へ回してもらえば、何処かの施設へ入れてもらえるだろう。そうすればもう、おまえの親から暴力を受けることはない。どうだ?」
「いやだ!」
頑なな目をしていた。誰も信じられないと必死に訴えるように……。
「だが、いつまでもそこに座っていられたら迷惑だ。休みたいなら車に乗れ」
男が後部座席のドアを開ける。と、子どもは男と車とを交互に眺め、それからおずおずと移動して、そこに座った。

「わあ! ふわふわして気持ちいい……」
少女はムートンに顔を押しつけて言った。
「簡単に乗るんだな。このまま連れ去られたらどうする?」
冴木が淡々とした口調で問う。知香はそんな男の顔をじっと見つめる。
「警察へは行かない?」
ムートンを抱えて子どもが言った。
「今は言わない」
「親の所へ帰れなんてことも言わない?」
「……」
「それから、病院へ行けなんてことも言わない?」
子どもは真剣な顔で訊いた。

「何故それほどまでに拒む?」
「だって、いやだもん!」
「なら、どうしたいと言うんだ?」
「……」
少女はまたムートンの中に顔を埋めた。外気は冷えていた。空には星も月も出ていない。天気は下り坂に向かっていると夕方の天気予報が告げていた。そのせいで空気が湿気っているのだろう。じきに降り出して来そうだった。

その時、少女の腹の虫がグーと鳴いた。
「腹が減っているのか?」
少女はうんと頷いて、それから慌てて首を横に振った。
「大丈夫。今日は朝から何も食べてない。でも、大丈夫だから……。お願い! ぶたないで……!」
男は軽くため息をついた。やはり、警察へ通報すべき案件だろう。が、少女の怯えたような瞳を見ると不憫に思えた。

親から虐待を受けて何故警察や病院へ行くことを拒否するのか。以前にも、同様の経験があったのか。そして、助けを求める前よりも酷い結果をもたらした……。だから、これほどまでに拒否する。そうとしか思えなかった。だとしても、それは何故起きたのか。親の巧みな演技によって連れ戻された。もしくは警察や病院の職員が彼女の話を信じようとしなかった。あるいは、それらの職員と親との間に何らかの密接な関係があり、子どもの主張が通ることなくもみ消された。他にも幾つかの可能性は考えられた。が、どちらにせよ、知香にとっては不条理であったのだろう。

ならば、まず、その信頼を取り戻さなければならない。
そうでなければ、このまま拒否する子どもを無理に連れて行ったとしても、かえって悪い結果を招きかねない。冴木は取り合えず、少女の気持ちを落ち着かせ、懐柔させる作戦に出た。

ほつりほつりと降り出して来た雨が彼に決断を急がせた。彼は運転席に乗り込むと車を発進させた。時刻はもう0時を過ぎている。窓に当たった滴がつーっと横切って行く。少女はじっとそれを見つめていた。

しばらく行くと深夜営業のドライブスルーがあった。冴木はそこに車を乗り入れると窓を開けてハンバーガーと熱い飲み物を注文した。
「これを」
冴木が受け取ったそれを少女に差し出す。知香は驚いて彼を見上げた。
「腹が減ってたんだろう?」
「うん」
少女はうれしそうにハンバーガーとココアの紙コップを受け取った。が、男の方を見てまた怯えたような声を出す。
「でも……。ほんとに? これ知香が食べてもいいの? ほんとに怒らない?」
「ああ。それはおまえの物だ。誰もおまえから取り上げたり、暴力を振るったりしない。だから、お食べ」
「ありがとう」
少女が笑う。屈託のない子どもらしい頬笑みだ。それから、彼女は男を見て訊いた。

「おじちゃんは?」
「私はいらない。これで十分だ」
そう言って男はコーヒーの紙コップを見せる。子どもはうなずいて、もう一度ありがとうと言ってハンバーガーを食べ始めた。雨は激しくなっている。
(取り合えず、腹が満たされれば少しは従順になるだろう。それから説得して警察に連れて行けばいい)
男はそう考えたのだ。しかし……。ふと見ると、子どもはハンバーガーをかじり掛けたままシートで眠り込んでしまっている。
「おい」
声を掛けたが知香はすっかり安心したように幸せそうな顔をして眠っていた。男は彼女の手からハンバーガーを取り上げるとそっと袋に戻した。ココアもまだほんの一口飲んだだけだった。

「疲れていたのか……」
彼はしばらくの間、フロントガラスの向こうに降りしきる雨を見つめていた。が、やがて静かに車を発進させるとマンションの地下にある駐車場へと滑り込んだ。
「まさかこのまま放っておく訳にもいかないな」
男はそっと彼女をムートンで包むと自室へと向かった。


朝。6時を過ぎても子どもは起きて来なかった。相当疲れていたのだろう。死んだように眠っている。冴木はコンビニで飲み物と食料品を購入し、テーブルに置いた。そして、メモを残して家を出た。

冴木は事務所に着くと引き継ぎとその日に自分が行うべきノルマを半日で片付け、半休を取った。事務所を変わったばかりの時期に私用で半休を取るなど許されざることではあったが、冴木に対しては鬼石でさえも寛容だった。もっとも彼のやるべき仕事は既に片付けられてしまっているので文句のつけようがなかったというのが本音だったのだが……。

冴木は、その時間を利用して知香の身元を調査した。そんなことをせずとも警察か児童相談所に引き渡してしまえばそれまでのことだった。が、その職員の対応についても調査が必要だと感じたからだ。が、いざ取り掛ってみるとこの問題はそう単純なものではなく、思ったよりも時間が掛かった。知香という子どもの存在がまるで確認できないのだ。戸籍にも、就学者リストにも該当する者がいない。範囲を広げてみても同じだった。かといって、彼女が遠方からやって来ているとも思えなかった。

出生記録や通院履歴などからも検索を試みた。
が、すべて無駄だった。そのようなことは謁見行為に値したが、彼は特権を持っている。情報収集に関する技術も有していた。にもかかわらず、彼女に対するデータがまるで出て来ないのだ。

「まさか……」
考えられる可能性は一つ。知香は戸籍に登録されていない。出生届が提出されていないということだ。が、それでは学校に入学することもできない。ましてや保険証も発行してもらっていないのだろう。それで病院へは行けないということなのか。だが、子どもは怯えていた。病院や警察に連れて行かれることに……。では、かつてそこへ連れて行かれた経験があるということだ。そして、そこで彼女にとって不快なことがあった。では、その時関わった人物を探せば、あるいは彼女の身元が判明するかもしれない。冴木はノートパソコンの蓋を閉じると携帯を取った。そして、複数の人物に連絡を取ると、再びパソコンに向かった。

およそ1時間後。ついに知香の身元が判明した。
河村(かわむら)知香……推定8才。
2年前に一度クリニックで診察を受けたことがあった。

「症名は打撲と左上腕骨骨折。肋骨にも罅……精密検査を要する。しかし、保険証の提示はなく、あとから現れた両親により料金未払いのまま連れ去られる……か」
送られて来たデータによると、警察に通報しようとした院長を恐喝。クリニックも診療室の一部を破壊されるなどの被害に合ったとある。その後、少女の行方はわからなくなり、院長は今も気に病んでいるという。
「なら、何故、しかるべき機関に相談しなかった?」
冴木には納得がいかなかった。が、その院長と直接話をして事情がわかった。そこは小さな小児科のクリニックだった。もし、警察に通報すれば、クリニックだけでなく、そこに通っている子ども達にも危害を加えると脅されたという。

「苦渋の選択でした。私とて子どもが虐待を受けているのを見逃すことなどできません。しかし、一人を守ることで、関係のない他の大勢の子どもを巻き込む訳にはいかなかったのです。医者といえども、私も一人の人間に過ぎません。決して強くはない一人の……人間でしかないのです」
冴木は黙って頷いた。
「お願いです。この件が私の口から洩れたということはくれぐれも内密にお願いします」
医者が懇願した。
「わかっています。私もあなたと同様、弱い人間ですから……。クリニックに被害が及ぶようなことは致しません」
冴木はそこを出ると再び携帯で連絡をした。


そして、夕方。彼が訪れたのは一軒のバーだった。路地裏の片隅にある店はいかにも安い酒と危険とが客の懐具合の割合でブレンドされて来る。そんな怪しい雰囲気が漂っていた。
「悪いね。お客さん。開店にゃまだ早いよ」
カウンターの向こうから分厚い化粧の女が顔を覗かせる。と、その女の視線が入って来た男の全身を無遠慮に眺め回す。品のある黒のスーツに眼鏡。どう見てもこの店には不釣り合いな客だ。
「へへ。お客さん、店間違えてんじゃありませんか?」
へつらうように女が言った。

「私は冴木と言います。河村澄江さんにお会いしたいのですが……」
男が言った。
「澄江はあたしだけど……一体何の用だい?」
女が怪訝そうに訊いた。
「あなたの娘さんのことでお話があるのですが……」
「娘だって? 何かの間違いじゃないですか? あたしには娘なんてものはいませんよ」
「いない? 妙ですね。私はあなたの娘さんを預かっているのですが……。」
「預かってるだって? 何のことだい? あたしには娘なんていないと言ってんだろ? こっちは開店の準備で忙しいんだ。出てっておくれ」
女が怒鳴る。

「では、ご主人はご在宅ですか? 河村定次さんは……」
眼鏡の奥から見つめる目が鋭く光る。
「おれに何か用かい?」
奥から現れた男が言った。
「あなた方は河村知香さんのご両親ってことでよろしいですね?」
冴木が言った。澄江がぼそぼそと男の耳元で囁く。
「あんた、警察か?」
男が訊いた。
「いえ、私は単にお嬢さんをお預かりしているだけです」
「ふん。気に入らねえな。預かっているからどうだってんだ?」
「お嬢さんは怪我をしておりまして……。いえ、それ自体は大したことはないのですが、家にも病院にも行きたくないと申しまして……」
「帰りたくないだと!」
男が怒鳴った。既にアルコールが回っているらしく、男の口調は少しもつれていた。顔面も赤く、そこいら中にアルコールと暴力臭を撒き散らしていた。冴木にとっては最も関わりたくないタイプの人間だった。しかし、一応の話はつけておかなければならない。

「もし、事情があるならばお伺いして、差し支えがなければお嬢さんを保護させていただきたいのですが……」
「保護だと!」
男の目が釣り上がる。
「はい。あなた方にとっても悪い条件ではないと思いますが……。今回はもちろんご存命である3人目のお嬢さんに関することなのですが……」
「3人目だと……?」
二人の顔色が変わる。それを見て冴木が頷く。
「相応の金額は用意致しました。これで知香さんとの縁を切っていただきたいのです」
「ふん。金なんかで……」
男は鼻で笑ったが、男が開いたアタッシュケースの中身を見て女が興奮した。
「あんた……」
女が定次を突く。
「ん? あ、ああ」
男もその札束を見て唾を呑む。

「3千万円あります。ただし、これはただ一度の取引です。くれぐれも下種なお考えなどお起こしになりませんよう、警告させていただきます」
「はは。こんだけあれば、ぱっとやれるぜ」
男が言った。
「あたしにも何か買っておくれよ」
女が甘えたような声ですり寄る。
「それでは取引成立ということでよろしいでしょうか?」
冴木が言った。
「あ、ああ。あんな役立たずのガキが札束に変わるとはな」
男の口から笑いが漏れる。
「ほんとだよ。今まで生かしておいてよかったってもんさ」
女の口からも言葉が滑る。
「ああ、客取らせるにはもう2、3年は掛るだろうからな」
男の言葉に冴木は嫌悪感を覚えた。

「では、私はこれで……」
冴木が店を出て行ったことも気がつかず、二人は有頂天になっていた。
「ふん。かす共め」
冴木は周囲に纏わりつく下種なにおいを消すために消臭スプレーを撒いた。


マンションに戻ってみると、知香はテーブルの上の食べ物にまったく手をつけていなかった。
「知香?」
寝室のドアを開けると子どもはベッドの上にちょこんと座ってこちらを見た。
「どうした? 何故食べない? 嫌いな物でも入っていたか?」
「ううん。でも……勝手に食べたら叱られると思って……」
「メモがあったろう。腹が減ったら食べろと書いてあった筈だ」
しかし、子どもは下を向いてぼそりと言った。
「知香、字読めないもん」
「……!」
それはまさしく想定外の言葉だった。

「ひらがなも読めないのか?」
知香が頷く。
「学校は?」
「……知らない」
(戸籍がないのだから就学もできなかったという訳か)
冴木はようやく納得した。
「それじゃあ、一緒に何か食べようか」
「でも……」
少女が落ち着きのない目で彼を見た。
「ぶたない?」
「ああ。私は暴力は嫌いだ」
そう言うと冴木は彼女をテーブルに着かせた。

「ちょっと待っていろ。温かい物を作ってやる。それと、消毒薬を買って来た。着替えもだ。食事が済んだら風呂に入って清潔な服を着て眠るんだ。いいな?」
「……わかった」
知香が頷く。
「でも……。ほんとにぶたない? 知香がここにいても怒らない?」
「ああ。だから、お食べ。チキンスープを温めた」
「うん。でも……」
子どもは一瞬笑い掛けて、また怯えた表情に戻る。
「もう誰もおまえを叩くことはない。終わったんだ。私がおまえを金で買った」
「……?」
「あの両親から、私が金で買ったんだ。わかるか? おまえはもうあの親のものではない。もう二度とおまえに手を上げる者はいない。だから、安心しろ」

「おじちゃんが助けてくれたの?」
「そうだ。これからは正式な戸籍を取って、学校にも通えるようにしてやる。それまでに文字や計算やいろいろなことを覚えなきゃいけない。私がサポートしてやる。そして、そのあとは……」
(どこか適当な養子先を見つけるか施設にでも入れれば……)
そう言うつもりだった。が、彼がそれを口にする前に知香が言った。

「ずっとここにいてもいい?」
「それは……」
「知香、ずっとここにいたい。おっかないパパやママのところになんかもう帰りたくない! お願い! 知香をずっとおじちゃんのそばにいさせて! お願い! お願…い……」
少女の目からぽろぽろとこぼれ落ちる涙……。
「ああ……」
男は頷いた。
「ほんと? ねえ、ほんとに知香をここに置いてくれる?」
「ああ」
(今だけはそう思わせておけばいい)

「ありがとう」
知香は礼を言うとスープの皿を持って一口飲んだ。
「おいしい」
少女が笑う。
「そうか」
冴木が頷く。
(今だけだ。準備ができたらすぐに他所へやる。それまでの間だけの辛抱だ)
その時、携帯のバイブレーターが鳴った。1件は事務連絡。そして、もう一件は予想通りの報告だった。

――連中が妙な気を起こした時には処理しろ
そう命じた男からの返答だった。
――シュレッダーの刃は交換済みです

(処理が終わったということか。たった一日しか持たないとはな)
慾に溺れた人間の末路を彼はこれまでにもいやというほど目にしてきた。そこで今回も同様に仕掛けたのだ。金をもらってそのまま大人しく引き下がればよし。もしも、それを逆手に取って強請など下種な行為に走るようなら処分しろと……。どうやら今回は最たる早さで決着したらしい。

「おじちゃん?」
知香が言った。
「安心しろ。もうおまえを脅かす者はいなくなった」
「……?」
子どもは黙ってスープを飲んだ。
(そう。おまえは永遠に解放された。明日の朝刊には彼らの行って来たこととその末路が掲載されるだろう。そのセンセーショナルな事故死と共に……)